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基調講演

講演:画聖雪舟の居所
講師:(一社)日本水墨画美術協会 理事長 濱中 応彦 様

 

ご紹介にあずかりました濱中応彦です。みなさんこんにちは。
本日はですね、雪舟が山口でどのように育んでいったか。そして、創作活動をどのようにしていたかっていうところを、みなさんと一緒に見てみたいと思います。

さてですね。今から545年前。京都で10年の戦乱が続いた応仁の乱というのが終息するわけですね。とりあえず終息はしたんですが、この5年後なんです。
ちょうど京都ではですね、足利義政によって京都の東山に漆仕上げの滋照寺を造営するわけなんですよ。
(応仁の乱後)5年経ってこういうことが始まっていきます。

これが実は東山文化ということになるんですが、日本も中国の影響が大であったところが、東山文化を境にして、日本の風土が基調になって、日本独自の建築や庭の文化が昇華していく時期なんですね。

これは建築になりますが、建築おいてはどういうことなんだと言いますと、それまではですね室内では、板張りだったんですね。それが畳敷き一部畳敷きだったのが、全てを畳敷きにするという内容になってくるわけです。
それから障子とかですね、書院造。それから襖というのが、海外の影響はないのですが。庭もそうですね。
ところが日本ではどういうことになったかというと、ただ見せるだけではないんですね。音とか、あるいは静寂さとか、そういったことを庭に応用していくんです。
静寂さとはどういうことかというと、例えばししおどし。“コツン、コツン“という音を出すことによって静寂さを表現していった。
こういうある意味で非常に高度な文化だと思うんですけれど、そのようにして日本の庭づくりに対しても一つ一つありますね。枯山水。これも世界にない日本の文化なんです。

もう一つ、紙においてもそうなんですね。中国で紙を作る場合、溜めていくんですね。
一方日本は漉くんですね。どう違ってくるかというと、溜めていくということは均等になりませんから凸凹になってしまう。ところが日本の場合、漉くわけですから、均等になるんですね。
そうすると、紙は水に弱い。水に弱いが、凸凹と均一を比べると、水に対しては均一の方が強いです。そういう意味では、日本の水墨画と中国の水墨画は紙から違ってくるわけです。
ですから、もっと具体的に言いますと中国の水墨画は水に弱いので線が基調になってくる。対して日本の水墨画は面でも描けるとう風になってきます。

こういったことで東山文化を境にして、日本の文化をどんどん昇華していくわけなんです。
それから一年後に歴史的に忘れてはならないことが起こってくるんですね。
これは造営の1年後。1483年なんですが、将軍義政がですね、雪舟に障壁画を依頼するんです。が、なぜか雪舟は、自分でなく、一回りも若い狩野正信を推薦するんです。

きっかけがすごいですよね。狩野派という集団がですね、なんと明治の狩野芳崖まで400年も続いてくるわけなんです。

ちょっと余談になりますが、狩野正信はなんと97歳まで生きるんですよ。
97ですよ。長生きしますよね。絵描きはなぜか長生きするんです。本当に。私の先輩を見ても長生きされますね。これには共通点があるんですよ。
今日は秘訣を覚えて帰ってください。どういうことかと言うと、絵を創作するとき、線を引く時、息をウっと止めて、息を吐きながら書くんですよ。
これが最高の呼吸法なのではないかなと。
是非、これから遅くありませんから水墨画をやってみてください。
もう一つは、創作するとき非常に悩みます。非常に神経を使ったりいろんな悩みが出てきます。この悩みが良いんです。その後の達成感と感動がちゃんともらえるんですよ。
これが体や精神的にもいいと思うんですね。
もう一つあるんです。なぜか別嬪さんが多いです。はい。私どもの塾生のほとんどが別嬪さんです。選んだわけじゃないんですけどね。

さぁ本題に戻りましょう。
なぜ、雪舟は正信に大役を譲ったんでしょうかね。理由があるんです。

3年後に狙い、理由が分かるんですが、その時期に雪舟は大内政弘からアトリエを与えてもらうんですね。それから1488年、ちょうど雪舟が67歳の時です。
そのときはですね、大内氏の権威付けのために色々な儀式が行われた年なんですが、その儀式の中で最も大切なのは、興隆寺の勅願、要するに天皇から位をもらうことがあるわけです。勅願はなかなかもらえないと思うんですが、この儀式があった。

その当時、興隆寺の周りに宿坊が100余りあった。最大の寺町といいますか、最大級のお寺だということが想像できると思うんですね。

これが本堂。本当に立派な本堂です。これが残ったことは本当に良かったと思うんですね。今は移築されています。

大内政弘は熱く観音信仰をしていたことから、雪舟は政弘に依頼されて観音図を約33から40幅書くんですね。ですが観音図を描くには決まりがあるんですよ。その決まりを守って書かなきゃいけないんですが、期間がですね最低2年ではかかりますね。そういったことが背景にあります。また、この観音図は10月ぐらいに奉納したんじゃないかなと思うんですけど、その後の12月には今の国宝「山水長巻」を献上するわけです。そういったこともあって(義政の依頼を)引き受けるわけにいかなかったんですね。
もし雪舟が狩野正信を推薦していなければ狩野派の歴史はなかったかもしれませんね。
だからこのきっかけというのは本当に大きいことだったと思うんです。

話を続けます。雪舟は明から帰ってまいります。
雪舟が帰国したとき日本は応仁の乱の真っ最中だったんですね。
帰国後は一時、大分に行くわけです。大分の方で少しばかり、約6年間、大分でアトリエを構えるんです。そして、この大友氏の領地で過ごした後、雪舟は各地に旅に出ます。また、大内政弘の将軍に対する遣いもするわけです。そういったことが10年ばかりありました。
こうした動きは何かというと、各地での情報収集、ある意味スパイみたいな活動もしていたと思われます。
この時代というのは旅をするということは大変な費用がかかるんですね。当然庇護がなければできなかったことじゃないかなと思います。
この時雪舟は、もうすでに62から63歳で還暦を過ぎているわけです。安住できる居住地は不可欠だったと思うんですね。

その時に大内氏から与えられたのが雲谷庵だったわけですね。現存する国宝6点も、おそらく雲谷庵で創作されたものと思います。

では、この雲谷庵がどんなアトリエであったのか皆さんと考えていきましょう。
雪舟の友人に了庵桂悟という方がおられるんですけど、雲谷庵には彼の「天開図画楼記」が詳しく記載されています。

了庵桂悟は、当時、東福寺の第171世。住職でした。山口には東福寺の荘園の件で参ります。
雪舟はちょっと関係があったと思うんですね。そうした関係から山口に来たときに、雪舟67歳、桂悟62歳で、二人は良い友達になるんですね。桂悟はなんと81歳で明に渡るんですよ。
そして90歳まで生きる長寿になるんですね。すごい馬力の人だと思うんです。

では了庵桂悟が書いた「天開図画楼記」を読んでみます。

“長年雪舟は画道を描き、励んで、今まで一度もその意思がすり減らされて無くなってしまうことはなかった。
こうして雪舟の年齢はもはや古希に及ぼうとして、この世の静閑な一隅である天開図画楼に、他日を期しつつ隠棲していた。
敷地は狭いが、佇まいは清高な趣がある。すぐれた守護 大内政弘公は、時々ここに気ままに足を運ばれる。在野の人、官僚、好奇心あふれる人々が次々に来訪する。雲谷老人はいつも竹製の椅子、がまの座ぶとんにすわり応接する。内外を掃き清め、香をたきしめることを日課とし、花を摘みとり水を汲み上げる。清流は激しく音をたて、巨きな岩は険しい崖となり高くそびえている。見たこともない珍しい鳥や獣は見え隠れし、鳴きながら飛びかう。きらびやかな魚が泳ぎまわり、主人と賓客は酒を酌み交わし、詩歌のやりとりをし、風はそよぎ月は雲を渡る。すべてこれは天開図画中に展開する一事である。これこそ雲、これこそ谷。早朝雲が谷の洞穴からわきでるのも無心であり、空に漂うのも無心である。図画と云い楼閣と云うのも等しく一点の水墨画の世界である。愚僧がこの心象風景を伝えると、雪舟はそのとおりだと同意してくれた。ついに天開図画楼後記と題し、思うがままに壁のすみに書き付けた。“

こういう内容なんです。

さて皆さん、ここでなぜ五重塔とか築山も出ないんでしょうかね、これ大きな疑問なんですよ。

今日のポイントはここなんですが。ということは今の庵は雪舟が居た場所でないということが証明されるわけなんですね。
見えたものは書きますよ。それを書いてないということはどういうことか。

今の雲谷庵は1593年に毛利輝元公より原直治、今の雲谷等顔のことですが、今の場所は毛利氏から等顔に庵と四季山水図が与えられた場なんですね。
これが廃屋になって、明治17年1884年に近藤清石さん等によって再建されたものなんですね。これは事実なんですよ。雪舟はどこに居たのか。

雪舟が38歳の頃は「拙宗」と名乗っていました。

大内持世の菩提寺 澄清寺というところがあったんです。これは宮野の桜畠雲ヶ谷というところがあるんですが、ここに七つの宿坊があった。この一角に住んでいたのではないかなと。雪舟は山口に馴染んでいくわけですね。山口は雪舟を育んだ場所であり、安住できる場所であったと。この安住の場所に大内政弘がですね庵を建ててあげたのではないか。
この辺りに木梨邸という建物があるんですが、このあたりに雲谷庵があったんじゃないかと推測しています。

雪舟は明に渡り本場の水墨画を肌で感じ、大きな自信を持って創作している。雪舟らしい作品というか創作というのは70歳過ぎてからなんですね。
何が、その原点であったかっていうと、やっぱり興隆寺です。その興隆寺に、今現在、雪舟の偉業を称えて日本水墨画の継承と発信の聖地として、雪舟メモリアルを造営しています。
これは皆様の寄付によって造営しているんです。今、八割方出来ています。今後も皆様とともに完成を目指していきたいと思います。

今回の講演にあたり雲ヶ谷を探検しました。いいところですね。
まさに雲谷庵があっただろうというところです。木梨さんと同級生の方々、この場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

雪舟さんはですね、日本の水墨画というものを昇華させてくれた方なんです。
ですから画聖と呼ばれているんだと思います。それから、四季山水図が宝としてあって、それを毛利さんが温めておられる。そういう風に脈々と伝わってきているわけです。
水墨画というのはどういうことかというと“描かない”。描いていないわけじゃないんですよ。余白ってありますよね。余白を感じる世界なんですよ。委ねる世界なんですね。
感じるっていうのは、その見る方も、ある意味では多少の知るということをしなければいけない。水墨画だけでなく庭もそうですが、日本の大きな文化とは何か。何も無いところに何を感じるか。水墨画もただの白黒ではないんです。
色をつけない。そこに色を感じるという世界なんですね。私も水墨画をやって良かったなと思ってます。
健康で長生きできるんじゃないかなと思ってます。
そろそろ時間が参りました。
ご清聴ありがとうございました。

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