雪舟回廊

ガーデンツーリズム

雪舟回廊のテーマ

室町時代のみならず、日本美術史上最も有名な芸術家のひとりである雪舟は、国宝6 点をはじめとする絵画作品だけではなく、作庭においても優れた才能を発揮したと伝えられています。
雪舟作と伝える庭園は今も多くの人々を引き付けています。

雪舟の魅力とは

 雪舟登場以前の日本絵画は、繊細で小さくまとまったものであったのに対し、雪舟の作品は、“ごつごつとした”、“無骨さ”が強く感じられる大胆な山水画やリアルな花鳥図まで幅広い表現手法を用いて、のびのびとした絵画作品となっています。

 雪舟の作品について、古くは、狩野派の絵師が雪舟の絵画作品を手本としたことから、多くの摸本が狩野派絵師によって残されています。また、明治時代中期に、日本古美術の再発見と近代日本画の開拓に貢献したアメリカ人・フェノロサは、著書『東亜美術史綱』において、雪舟のことを“神の如き天才を懐ける”、“雪舟の画風は亜細亜美術の広き範囲における中心を為せり”、“雪舟は世界美術の全局における直線及稜角の最大家なり”と評しています。また、フェノロサとともに活躍した岡倉天心は、著書『東洋の理想』において、“雪舟は足利時代の代表的書家である”としています。

 一方で、岡本太郎は、“雪舟はある意味で日本画壇の第一歩を進めた人である。”としつつも、“芸術ではない”と言い切っています。

 雪舟は、これまでに多くの研究者や、文筆家によって様々な評価を受け、その評価も大きく分かれる芸術家ですが、日本美術史上において、大きな影響力を持つ人物です。

伝雪舟作庭園とは

 雪舟が作庭したと伝承が残るいずれの庭園も、雪舟作であることを示す同時代史料はないものの、近世の地誌や伝承などで“雪舟が作庭した”とされており、その伝承が現代に伝わっています。雪舟の絵画作品を研究されている美術史家の島尾新氏は、「本当に雪舟が造ったのか?」と聞かれると「わからない」としか答えようがない、としつつも、「火のないところに煙は立たない」として、雪舟が造ったと伝承が残るには、何か理由があるのだろう、としています。

  • 雪舟が作庭したと伝わる常栄寺庭園

 そのように見てみると、萬福寺庭園や医光寺庭園のある益田には晩年の雪舟が滞在し、当時の領主益田氏の肖像画「益田兼堯像」など作品を残しています。山口は雪舟のパトロンであった守護大名大内氏の本拠地で、常栄寺庭園は、大内氏の当主・大内政弘の母の菩提寺であった妙喜寺の庭園であるほか、同じく山口の常徳寺庭園は、益田と山口を結ぶルートの途中にあることなど、雪舟の足跡が残る地に、これらの“伝雪舟作庭園”は存在しています。

 作庭家で庭園史家でもある重森完途氏は、雪舟作庭伝承の残る庭園の観察から、①石を垂直に構成すること、②重ねかけるような石の組み方をすること、③長い石を護岸石組に用いて、石の組み方に垂直的な構成がみられることなど、独特な石組をその特徴として指摘しています。また、庭園を構成する“地割”にその特徴を指摘する専門家もいるほか、借景部分も含めた庭園の景観と、雪舟の水墨画の景観の類似性から、雪舟と庭園との関連性を指摘する専門家もいます。

 また、東洋文化研究者で著述家のアレックス・カー氏は、常栄寺庭園について、「立石の持つエネルギーや滝の流れなど、常栄寺の庭を見渡してみると、庭に山水画を展開しているようで、雪舟の庭ということが納得できる気がしました」と、述べています。

雪舟の歩み

  • 『雪舟生誕地碑』岡山県総社市
  • 雪舟が山口における拠点とした『雲谷庵跡』
  • 重玄寺跡に残る『雪舟墓』
  • 大内氏の至宝を所蔵する『毛利博物館』

 雪舟は、応永27年(1420)に備中国赤浜(現・岡山県総社市)で生まれ、子供のころに地元の①宝福寺に預けられています。雪舟の子供の頃の有名なエピソード「涙で書いたネズミ」は、この宝福寺でのお話です。その後、京都・相国寺で修業したのち、西国屈指の有力大名・大内氏のもとで働かないか、と誘いを受け、山口(周防国)へと向かいます。

 大内氏のもとでは、画僧としての役割のほかに、“各地の情報収集”として多くの旅をし、また、山口に来た多くの要人とも会見し、これらから得た他国の情報を絵に描きとめるなどして、大内氏にもたらす役割もしていました。時代が戦国時代へと移るなか、雪舟がもたらす情報伝達の価値は高まり、雪舟の社会的な地位を押し上げるものとなりました。

 山口に来てから十数年が経過し、応仁の乱の勃発した年である応仁元年(1467)に、大内氏の遣明船のメンバーとして中国・明に渡り、画業を修めました。日本に帰国してからは、小倉や大分など北部九州を旅したのち、山口の雲谷庵を拠点として、②三原・佛通寺など各地を巡ったほか、晩年は大内氏の隣国石見国の有力な領主益田氏のもとにも寄寓しました。この時期に、伝雪舟作庭園が各地に造られたものと考えられます。山口滞在中は、アトリエ・雲谷庵において、「四季山水図(山水長巻)」など、多くの作品を描きました。また、大内家の当主・大内政弘に命じられ、妙喜寺の庭園(③現・常栄寺庭園)を作庭したとされています。

 益田では、益田氏当主の「益田兼堯像」を制作した際に、④萬福寺庭園を作庭し、その後、崇観寺(現:医光寺)の住職を務めた際に、⑤医光寺庭園を作庭したとされています。⑥常徳寺庭園は、庭園の所在する場所から推測すると、山口と益田の間を移動する際に造られたのかもしれません。

 雪舟の没年や、没地には諸説があり、益田、備中国吉井(現、岡山県井原市重玄寺跡)、山口など各地にその伝承が残っています。

 雪舟が没したのち、時代は下剋上の戦国の世へ移り、雪舟のパトロンであった大内氏は、重臣の陶氏に滅ぼされ、その陶氏も毛利氏に討たれ、大内氏の本拠・山口は、毛利氏の領国となりました。

 大内氏が山口に残した文化遺産のうち、建造物は、毛利氏が親交のあった諸大名に贈られたり、毛利氏が本拠地とした萩へと移転したりしましたが、美術工芸品の多くは、毛利氏が引き継ぎ、手元へ置きました。そのうちの一つが、雪舟の代表作とされる国宝「四季山水図」(いわゆる山水長巻)です。大内氏の愛でた名品は、毛利氏へと引きつがれ、毛利家の至宝として大切に保存されてきました。現在は⑨毛利博物館で所蔵され、毎年11 月に特別展示されています。

本計画のストーリー

  • 雪舟が示寂前に滞在したとされる『佛通寺』

 今回提出する企画は、雪舟サミット構成自治体に所在する雪舟の作庭伝承を持つ庭園を中心にゆかりの地をつなぐことで、「雪舟の作品に出会うことができる旅」をテーマとして、地域のにぎわいや交流の創出を図ろうとするものです。

 本計画では、①雪舟が理想とする景観を実際の大地に表現した“伝雪舟作の庭園”、②雪舟が描いた絵画作品を鑑賞できる施設や空間、③雪舟が絵画作品を描く際や、庭園を作庭する際に参考としたとの伝承が残る景勝地、生誕地や没地といった雪舟ゆかりの地、など3 つの視点から雪舟に関係する自治体を結びつけることにより、雪舟が見たであろう風景や雪舟の世界観を追体験できるものとします。

  • 雪舟が画業の参考としたとされる景観『長門峡』

 水墨画というと、中国の雄大な自然や禅宗の仏画といったような実世界とは離れた抽象的な絵画と言うイメージもありますが、雪舟にあっては水墨画などの絵画作品のみならず、実在する“伝雪舟作庭庭園”や、画業や作庭の参考にしたであろう“景勝地”やゆかりの地をおとずれることにより、雪舟作品の世界観を身近に感じるとともに、作品自体の魅力や奥深さも感じることができます。また、雪舟が頼みとした大内氏が築いた同時代の発掘庭園(大内氏館跡 ⑦池泉庭園・⑧枯山水庭園)を組み込み、併せて鑑賞できる内容とすることで、“伝雪舟作庭園”の独創性をより理解いただけるものとしています。