大内氏館跡枯山水庭園(おおうちしやかたあとかれさんすいていえん)
- 【所在地】
- 山口県山口市大殿大路119
- 【開園面積】
- 200㎡
- 【入園料金】
- 無料
- 【公開時期】
- 通年
- 【施設管理者】
- 山口市
西の都に咲いた室町時代最先端の庭園
中世の周防山口を本拠とした守護大名・大内氏の政治拠点であった館(以下、大内氏館跡とする)に築かれた庭園の一つです。本庭園を含む大内氏館跡は、大内氏の動静の根本をなすべき遺構が略略とたどり得られることは学術上貴重であるとされ、築山跡、高嶺城跡、凌雲寺跡とともに、史跡大内氏遺跡附凌雲寺跡として、昭和34 年(1959)11 月29 日に、国の史跡に指定されています。
現在、大内氏館跡の地の大半は、大内氏当主・大内義隆の菩提寺である龍福寺の境内となっており、中心に重要文化財『龍福寺本堂』が建っています。この『龍福寺本堂』は、室町時代中期に建てられた興隆寺釈迦堂(興隆寺は大内氏の氏寺でした)を明治16 年(1883)に移築したものであり、大内氏治下の建築技術を知るうえで、貴重な文化遺産の一つです。
大内氏館跡は、これまでの発掘調査で、館跡の外郭施設(堀や門跡など)、4つの庭園跡などが発見されています。これらの発見された庭園のうち、本庭園(枯山水庭園)と、次に紹介する池泉庭園が復元整備されています。
雪舟と大内氏
大内氏は、中国の明王朝や朝鮮王朝との交易を盛んに行ったことから、当時の山口は経済的に発展・繁栄し、京都から多くの公家や文化人が来訪していました。中国大陸に渡り、画業の修行をしたいと考えていた雪舟もその一人で、大内氏は、いわば雪舟のパトロンのような存在であり、雪舟は大内氏のお抱え絵師であるとともに、文化コーディネーターのような存在でした。
大内氏の盛衰を物語る庭園
ここの枯山水庭園は、長い間地中に埋もれていた庭園を、発掘調査の結果にもとづいて保存整備したもので、中世の庭園文化をそのまま現在に伝えるものとなっています。本庭園の構成は、当時の当主・大内義隆が参学の師とあおいだ玉堂宗條(大徳寺92 世)ゆかりの大徳寺大仙院庭園(国指定名勝)との類似性がうかがわれます。枯山水庭園は、当時の最先端の庭園様式で、これを大内氏がいち早く取り入れたものと考えられます。
本庭園に配された石材の多くは、生々しい焼け痕が残っており、その痕跡は、大内氏の滅亡期に館が戦火により焼失した際のものと考えられることから、大内氏とともに栄え、ともにほろんだこの庭園の悲哀が感じられます。
続日本百名城
大内氏館は平成29 年に、高嶺城とともに『続日本百名城』に選ばれました。『日本百名城』、『続日本百名城』とともに、多くの歴史・城ファンが訪れるスポットとなっています。庭園だけでなく、百名城スタンプラリーの参加者など多くの方が訪れます。
中世都市の面影
檜皮葺の屋根が美しい重要文化財『龍福寺本堂』
大内氏館跡の周囲には、大内氏が山口の地を治めていたころから残っている地割(道路)や、地名(大殿大路、竪小路などの大路・小路が付く通名など)が残っています。
また、伝統的建造物の檜皮葺の屋根をはじめ、伝統的工芸品・大内塗や山口銘菓・外郎など、大内氏が遺した大内文化は、いまも山口のまちに息づいています。
計画のテーマでの位置づけ
雪舟と同時代の庭園。本庭園と雪舟作庭伝承の残る庭園を比較することで、配石や立石の手法が独特といわれる伝雪舟庭の魅力をより深く理解することができます。