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第18回雪舟サミット 基調講演

基調講演の様子

民俗学者 神崎 宣武氏

講演:画僧雪舟の旅
講師:民俗学者 神崎 宣武氏

こんにちは。
今日は皆様、30分ほどお付き合いをお願いします。
雪舟さんの生誕600年記念ということで、先ほどのファッションショーも、広島県立歴史博物館の衣装をお借りして、室町時代のファッションショーでした。
この室町時代は、大きな区分でいうと中世です。
中世というのは、私たちの歴史感覚からは非常にあいまいな時代です。
これが近世になってからの武家政権の制度あるいは統治は、いわゆる時代劇でもなじみが深く、チャンバラ映画を見るとか見ないではなくても、私たちに浸透している。
こうした身分制度、年貢制度などは江戸時代に成立しました。
幕藩体制は、全国で初めて日本列島を統治したもので、全国的な統治が成立したのは江戸時代が初めて。
この時代に幕府は従来と違う厳しい制度を作り、これはあくまでも建前ではありますが、庶民にとっては、面倒でも守らねばならない。
こうした江戸時代の印象は、我々の頭に強すぎるのです。
明治以降の近代も、江戸時代の制度を変え、近代国家の法律で運営されたが、今度は皇国史観と軍国主義の軸が出てきた。
これは新たな軸だが、江戸時代の幕藩体制を、それほど変えていないと言えるんです。

ところが、中世以前は、そうではなかったのではないかと思います。
江戸時代は経済を米ではかりました。
全国に2百数十藩ありましたが、いわゆる百万石というように、そこでとれる米を基準に経済力をはかりました。
身分と米は、江戸時代を支える大きな制度の柱です。
さて、中世でもいたるところで米を作り、それが日本人にとっての価値基準になっていたと思いがちです。
しかし、そうは思わないほうが良いと言えるでしょう。
なぜなら、中世は幸いにも、絵巻物がたくさん残っているんです。
雪舟の産まれた15〜16世紀は違いますが、それより少し前には絵巻物が残されています。
文献資料ももちろん無視できませんが、絵は素人にも判断しやすい一方で、絵巻物を活用した研究は、日本ではまだ亜流といえる状況です。
ところで私の師匠は、民俗学者の宮本常一といいますが、その先生が絵巻物に注目したんです。
この絵巻物は、大雑把に言うと鎌倉時代から室町の中期に沢山描かれました。
主に、仏教関係の寺の成立を描いたものが多く、信貴山絵巻というのもあるんですが、お寺の絵巻物が多いです。
午前中のそうじゃ問答の中でも、遊行僧(ゆぎょうそう)を紹介したと思います。
字では「遊びに行く」と書きますが、今とは全く意味が違う。
こうした、今と全く違う意味の言葉、という意味では、「観光」という言葉にも通ずるモノがあります。
今では「観光」は遊び、物見遊山という意味の言葉になってしまっています。
ところが元々「観光」とは、中国の『易経』という文献に出てくる言葉で、「国の光を観る、王に賓たるに用いるに利し」とあります。
国の隅々にどういう素晴らしい場所、すなわち光があるか。国を治める人は文化遺産などを十分に見たうえで方針を決めるべきと言っているんです。
明治の初年は、日本もそういう意味で「観光」という言葉を使っていました。
例えば、アメリカへ行った勝海舟の船は「観光丸」。世界遺産にも登録された、群馬の富岡製糸工場で作られていたのは「観光繻子」。
それが、だんだん「観光」という言葉はただの旅行を意味するようになった。
元の言葉は時代とともに変化しますが、それが悪いとは言えない。変化して当然ともいえます。
そこで私たちは絶えず、元が何だったか振り返ることが大事になります。
そうすると、中世の文献も絵図も探ってみたところで、窮屈な身分制度が出てこないことがわかります。

百姓というのは、年貢制度、石高制度の中で、稲と米が中心になった中では、ついつい米を作る人を百姓と言ってしまいますが、百姓=農民ではありません。
今だって日本中で専業農家は農家全体ではわずかで、ほとんどすべて兼業です。
元はこの兼業農家を百姓と言いました。百姓百職。百の生命があれば、百の生活がある。
士農工商なんていう身分制度をつくるということは、中世ではありえない。みんな農業もしながらほかの仕事をして、半分の仕事を持っている。それが中世という時代でした。
そこで、今日そうじゃ問答でも出た「公界(くがい)」という言葉ですが、家を出たら、全てが公の世界という意味です。
閉鎖空間ではなく、誰もが行き来ができ、誰もがそこで商売ができる。これが中世の1つの大きな特色でした。
雪舟の旅の参考になる絵巻物として、『一遍聖絵』があります。
雪舟より100年ほど前の時代を書いたものですが、この頃はそんなに大きな変化はない。
大きな変化があるのは、足利の武家政権が全国統一をはかってそれが豊臣や織田信長につながっていく時代。
しかし、中世末までは大きな変化はなく、それぞれが自由に行き来をしていたと考えていいでしょう。
その頃の総社界隈は、絵巻物に残ってはいませんが、備前の辺りは一遍聖絵に出てきます。
これがそうです。ごらんください。

一遍聖絵

刀を持っている武士、頭上に包みを持っているおばあさん商人、子ども、みんな自由に動いています。武士が僧侶に文句を言っているところも描かれています。
こうした市では、物を売るのも自由でした。
図の上のあたり、反物を売っている女性が見えますが、反物を作るのは農作業の暇なときにやります。こうして農業以外の、もう半分の稼ぎをするわけです。
一番上の左端では、下駄を作って売っている人が見えます。
午前中の「そうじゃ問答」でも雪舟に下駄を出してもらいましたが、下駄は誰もが買うものではないのです。
お坊さんを中心に、身分の高い人が下駄を使っていたので、明治で言う革靴ですね。なので、下駄職人もいる。
画面の下の方には甕がある。これはおそらく備前焼です。
甕と説明しましたが、正式には、口がすぼまった形をしているので壺です。これに酒を入れて売っています。
この時代、道行く人は、車にものりませんから一杯飲んで行くわけです。そういう自由な時代です。

自由を認める言葉として、「公界」という言葉がある。網野善彦が提唱した言葉です。
公の界隈と書きますが、今の言葉でいうと、公界は公園に近い意味の言葉です。
入るのにお金は要らないし、それでもやってはいけないこともない。
そうした公園的な公界が、そのころはいろんなところにありました。市場もそうだった。
中世の歴史を具現して、ある程度残している場所というのは全国でもあまり例がありません。
ただ、岡山県には新見庄というのがある。
伯備線で北へ行くと、新見駅がありますね。この新見の界隈が、中世新見庄。
さて、京都駅から南へ歩くと、東寺がありますが、この新見庄は東寺の荘園でした。
そして東寺の記録に、新見庄からこれだけのものが上がっている、という記録があります。
江戸時代で言う年貢なんですが、米はほぼありません。記録上、献上したものの中で多いのは、鉄です。
砂鉄製鉄は8世紀(700年代)頃に出てくるもので、総社市の遺跡にも製鉄が出てきます。
それ以前は朝鮮半島から材料を仕入れ、それを鍛冶加工して使っていました。
それが、次第に砂鉄が出てくるようになり、それを材料にするようになります。
今、出雲大社の横のあたりに古代出雲歴史博物館があり、そこにたたら製鉄のミニチュアの再現があります。
砂鉄を取るには、山の中で鉄鉱石を含んでいるところを掘り、粉砕し、それを溝を掘って流すんです。
鉄鉱石を掘るところには、水が相当必要で、池が要ります。池を見ると今は稲作を連想しますが、古い池は稲作とは関係ないのです。
さて、山を削ったところに砂鉄流しをします。水を流すと、砂の部分は流れて落ち、比重が重い鉄分が沈殿します。
その鉄分をさらって、製鉄作業をして、それで作ったものを鍛冶屋に持っていって色々な鉄製品にするんです。
砂鉄は、新見庄から京都へ運ばれていた、というようなことが、荘園の記録からは伺えます。
砂鉄のほかに、和紙がありました。
その頃、和紙の原料になるものは幅広くありました。野生の麻も和紙の材料に使われました。
こうした製品を作る人たちももちろんいたわけですが、これを百姓百職と言い、こうした働きによって荘園の機能が果たされるのでした。
総社市でいうと、合併前の昭和町、美袋という駅から山の方へ行くと、影という集落があり、ここでは畑が扇状地に開けています。
普通は、畑は山の稜線に沿っていて、これが棚田となる。ところが影はきれいに扇に開いている。
これは、なぜかと言うと、砂鉄流しをしたからなんです。
後の時代に変わると砂鉄は別のところに求めるようになり、元の場所は農地になる、という中世の生業を地形から連想するわけです。

かつての赤磐郡の瀬戸内市長船福岡の辺りの風景

この時代、多くの人が、農業以外の換金物を持っていました。
例えば、かつての赤磐郡の瀬戸内市長船福岡の辺りの風景。
今でいうと、ずっと水田だったように思える景色に見えますが、これは近世以降の景観です。
江戸時代は各藩で米の生産高に基づいて石高を決めましたが、なかなか思ったほど米は取れなかった。特に東北はそうです。

ところが吉備では、特に備前側に水路を作った。
これは相当古いが、一面に水田は、中世のものではありません。
我々は、昔の人は米ばかり食っていると考えがちですが、江戸時代も半分は畑作で、水田でとれた米をどう食いつなぐかが重要でした。
年貢も米ばかりでないから、ほとんど自給自足と考えられます。
日本は、江戸時代の制度から、なぜか米の貨幣価値を信奉するようになりますが、それ以前の米は、作れるところで作ればいいというものでした。
もうひとつ考えなければならないのが、水田を開発したというところです。
洪水が来ると水田は機能しなくなるため、洪水との闘いがはじまります。
元々山間部では、稜線沿いに棚田を作ったのですが、これはこの方が安定していたためです。山地にあって、半農半業という生業形態。
川沿いに洪水対策するには護岸工事が必要ですが、これは江戸時代に作られたもので、土手を作る土木技術は城づくりを応用したものでした。
ただ、総社のような町は、その前から安定していた。元々地形の良い土地だったので、古くから開けていたんです。
この近辺を含めて、山地のほうに生産拠点があって、平地は交易を中心に、川でも船を使うとかで開けていき、のちに町になる。
こうして商売が盛んになると、経済力が重要になる。それを仕切る人たちが経済力を持ちます。
そういう人を中世の文書では、「悪党」と言います。
金を稼いで、それをあちこちに貸す。そして取り立てを厳しくする、というような、商人の集団が出てくる。
これは行政者からすると、悪党と言わざるを得ない。
まだ国の体制がしっかりしていなくて、徴収する力がない行政は、途中で利益が抜かれているのを、悪党と記録上は書かざるを得ない。
これはのちにも続き、江戸時代の士農工商では、商の一番下にそれが出てくる。
「薬師(やし)」といい、村で作ったものではなく、山で適当にとって作ったものを口上巧みに売る。
これを江戸時代には香具師と書く。やし、のしと読みます。
自由に行くことができるが、怪しげな商売をしています。商品があやしいから、口先で売るんです。
ちなみに寅さんは、昭和の香具師です。
以前山田監督に聞いた話ですが、この香具師という性格付けは渥美清さんが作ったそうです。
寄ってらっしゃいみてらっしゃい!というような、こういう売り方をする、これが中世の「悪党」なんです。

画面:お坊さんの格好

さて、画面をご覧ください。
この絵は雪舟さんではないが、雪舟もきっとこうした格好をしていたのだと思います。
お坊さんの格好をすると、周りの人は脅しをかけにくいという特長があります。
『一遍聖絵』に描いてある話ですが、一遍が市で話をつけて、向こう3年間の旅を保証するという取引をしたとあります。
そういう制度、文章で支配しない社会が中世でした。
国をまとめよう、どこかから収入を得ようとした人は、相当苦労したと言えるでしょう。
ついでに言うと、そういう暗黙の了解を「なあなあ」であるとか、本音と建前がいい加減だと批判はできる。
しかし、暗黙の了解で成り立った村社会があり、市場の怪しげな人を暗黙の了解で認める、ということもできます。
これを一概に否定することはできません。
もちろん法治国家は大事、規則は大事だが、暗黙の了解ができなくなった、私たちの社会は窮屈だと思います。
以前、広島県の備後で民俗学の聞き取りの中で話を聞いたことがあるのですが、明治のころまで、山仕事で遅くなった婦人は、帰りは髪を解いてばらし、それで、薪や草を担いで帰ったそうです。
髪を垂らした女性に遇ったら、男は道を避ける、という、これも暗黙の了解がありました。
こうしたとき、男性側は「山の神が下りてくる」という表現をしました。
ともあれ、雪舟も旅の中で苦労はしたが、今考えるほどの窮屈さはなかったのではないか、そういうふうに、私は中世という時代を読み解いています。確証があるものではありませんが。
中世は、人間が言葉を交わさなくても、規則を振り回さなくても、警察権力を持たなくても、何とかお互いやっていける時代でした。
そういう社会を今から作れと言われても作れないが、歴史の上では、中世を再評価すべきだと思っています。
備中は中世的社会をよく残している地方で、小字(こあざ)ごとに荒神様をまつっている。
これが江戸時代になると、集落の単位が後の地名の大字になっていき、荒神様もすたれていきますが、備中備後は中世系の荒神信仰が残っています。
各集落ごとに荒神様の祭りがあるということでは、中世がまるで消えているわけではないので、ご興味をもって見てほしいと思いますし、たまには話題にしてほしいと思います。

画面:お坊さんの格好

壇上へ立つと生意気なことをしゃべってしまいますが、時間が参りました。時間に限りがありますので、ここでは質問は受けません。
ご意見があれば、会場内に座っていますので、おっしゃってください。
それではここで、私の話はしめさせていただきます。ありがとうございました。

講師略歴
神崎 宣武(かんざき・のりたけ)
1944年岡山県生まれ。民俗学者。現在,旅の文化研究所所長,東京農業大学客員教授,公益財団法人伊勢文化会議所五十鈴塾塾長,一般社団法人高梁川流域学校校長,岡山県文化振興審議会委員,総社観光大学プロデューサーなどをつとめる。岡山県宇佐八幡神社(井原市美星町)宮司でもある。
主著に,『盛り場の民俗史』,『江戸の旅文化』,『三三九度―日本的契約の民俗誌』,『「まつり」の食文化』,『しきたりの日本文化』,『「おじぎ」の日本文化』,『社をもたない神々』,『吉備高原の神と人―村里の祭礼風土記』,『神主と村の民俗誌』などがある。

 

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