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第14回雪舟サミット 基調講演

司会>
さて、本日の基調講演、「雪舟の生誕地・総社」と題しまして守安收先生に基調講演をしていただきます。守安先生は岡山県のご出身です。岡山大学法文学部で美学美術史を専攻、ご卒業されまして同大学院を終了後、岡山県立博物館、それから岡山県立美術館開設準備事務局を経まして、同美術館の学芸課長、それから副館長を歴任されております。現在は吉備国際大学の文化財学部の教授として教鞭をお取りになっていらっしゃいます。それでは準備ができしだい、「雪舟の生誕地・総社」と題しまして、守安收先生に講演をしていただきます。
それでは準備ができましたようですので、守安先生、どうぞご登壇くださいませ。どうぞよろしくお願いいたします。拍手でお迎えください。
守安>
守安收先生ただいまご紹介いただきました守安と申します。本日、皆様の前で雪舟さんのお話をさせていただきますが、それは釈迦に説法というようなことであるかもしれません。とはいえ、雪舟誕生地とされるこの総社市に各地からお出ましいただき、それも修行の地とされるこの宝福寺で今回のサミットが開かれるということでもありますので、少しお時間を拝借してお話をさせていただきたいと思います。先ほど濱家さんから岡山県出身と紹介いただきましたが、私はこの総社市の出身です。それも雪舟さんとは同じ小学校区です。そういう因縁もありますから、私にとっても郷土の先輩であります雪舟さんには同窓会の会長さんとか、総社地域を活性化させる会の会長さんとかをお願いして、総社振興の旗を振っていただきたいと願っている次第です。それは余談として、30分という比較的短い時間しかありませんから、皆様のお手元にプリントを用意いたしました。そちらをご覧いただきながら進めていきます。
最初に、ページ1をみてください。雪舟さんの生没年については、1420年から1506年、最後にクエスチョンマークを入れております。雪舟さんの没年といいますか、亡くなった年というのは確定しがたいものがあります。明治の早い頃の文献には「雪舟さんは83歳で亡くなった」それも「益田で亡くなった」とするものが多かったのですが、その後に出版された人名事典、美術全集、解説書などには「87歳で亡くなった」という説明がほとんどとなっております。それが近年、本当にこの10年くらいですが、厳密に言えば83歳以降の事歴についてはよくわからないのだから、クエスチョンマークをつけるのが正確でしょうと研究者連中は考えておりますので、このようにさせていただきました。
それでは、資料をちょっと読んでみます。雪舟は「室町水墨画を大成した画僧である。諱、本名は等楊。備中赤浜、現・総社市赤浜に生まれる。赤浜在住の藤氏重定の一族と考えられ、藤氏は臨済宗の仏通寺派の禅庵を建立し維持することのできる程度の地域の有力者であった。」。まず備中赤浜生まれ、総社市出身ということは、皆さんよくご存知の通りです。「赤浜在住の藤氏重定の一族と考えられ」るというところについては、後ほどもう少し詳しくお話しさせていただきますが、それを裏付けたのが雪舟さんがまだ若い頃に、今の井原市芳井町にある重玄寺という禅寺の住職だった千畝周竹さんという方がお話されたことやお書きになったことなどをまとめた『也足外集』という本であります。この千畝さんは三原市の仏通寺のご住職も務められた禅僧です。こちらには井原市長さんや三原市長さんをはじめ、今お名前の挙がったゆかりの地の方々が大勢いらっしゃいますが・・・・・・。
それから「涙でネズミを描いた伝説で知られる宝福寺に入った後、上洛して相国寺において禅を春林周藤に、画を天章周文に学んだ」わけです。宝福寺、相国寺の名前が出ましたが、私はこの相国寺に赴く前に同じ京都の東福寺というこちらの宝福寺さんの本寺に入ったと考えております。このこともまた後ほど触れてます。「40歳頃までの履歴については不明な点が多いが、今日では同時代の画家で音通する拙宗等揚(せっしゅうとうよう)を彼の前身とする説が確実視されている」。雪舟さんの前半生がよくわからないというのが、これまで彼に関する大きな謎でした。「雪舟(せっしゅう)」、訓読みしたら「ゆきふね」ですが、「雪舟」という画号で活動を始めたのは40代の半ば、中国に渡る直前です。それならば、改号する前は何という画号で40代半ばまで絵を描いていたのかということが不明だったのです。少なくとも私が大学で勉強している頃にはいろいろな説が唱えられていたものの、結論は出てませんでした。それがこの10年、20年研究が進んで、この音といいますか、雪舟さんのお名前を音で読みますと共通する人、<拙宗等揚>という人物が<雪舟等楊>であると考えられるようになったということです。
「40代半ばには山口の守護大名大内氏の庇護下で画房雲谷軒を営む画僧揚雲谷という画僧として歴史に登場し、1466年頃にいわゆるゆきふね、雪舟等楊と名乗っている。そしてその翌年頃の1467年、大内氏の遣明船に乗り、水墨画のふるさと中国に渡る。足掛け3年に及ぶ明国滞在において宮廷画家李在らに画法を学び、文人たちと交流した経験と明代絵画を中心とする作品や大陸の風景、風俗に触れた体験とが契機となって雪舟の画境は大きく広がる。そして1469年に帰国してからは諸国を遊歴。1476年頃は大分でアトリエ天開図画楼を築いて活発な作画を行うもまた旅に出て1481年には美濃に友人を訪ねている。」この美濃行きの前には益田にも滞在しています。そして「1486年12月、山口で画師としての自負を込めた大作《山水長巻》、これは防府市の毛利報公会毛利博物館の所蔵品として天下に名高い国宝ですが、それを制作した後は山口が雪舟の活動拠点となったということ、その後のことは省略しましたが、これがおよその雪舟さんの事歴ということになります。本日は総社で開かれるサミットですから、誕生地について少し詳しくお話したいと思っております。
この誕生地につきましては、資料の1と書いたところをご覧ください。漢文ばかりで読みにくいのですが、我慢してください。これは東京国立博物館の所蔵品で国宝に指定されている《破墨山水図》という作品の図上に雪舟さんがご自分で記された文章です。当時の画家が、自分のことについて言い及んで、それを書き留めた資料はきわめて珍しいものです。最初のところ、「相陽宗淵蔵主」というのは相模国の鎌倉、円覚寺という有名な禅寺のお坊さんである宗淵さんという人が、わざわざ山口の雪舟さんのところに画の勉強に来ておりました。それを終えて国に帰るというので挨拶に来て、先生の画をぜひとも私にくださいというので、自分はもうろくしているから描けないと断ったのだけれども、どうしてもと懇願するので描いたのだということが冒頭に書いてあります。この作品が出来上がるいきさつですね。続けて、自分は水墨画の本場である中国、当時は明という国ですが、そこに行って日本に戻ったのだが、私が日本で教えていただいた如拙、周文という先生方の方が立派だったと思うといったようなことを書いております。ただし、帰国して25年も6年もたってからの感想ですから、ここのところは少し割り引いて考えないといけないでしょう。そして一番最後の行を見ますと、「明応乙卯」、1495年のことですが、「四明天童第一座老境七十六翁雪舟書」とあります。これで雪舟さんの生まれ年がわかります。1495年に76歳ということですね。《山水長巻》にも制作した年と年齢とが一緒に書いてあります。すなわち、雪舟さんがお生まれになったのは1420年ということになります。ちなみに、雪舟さんがお生まれになった年というのは、干ばつや飢饉が起こって、病気もはやったとのことで、とても厳しく災難の多かった年であったということが知られております。
それでは、生まれた場所は一体どこなのだろうかというのが次の2番です。「雪舟誕生地資料」として、「雪舟の誕生地について言及した同時代の資料は次の2点である」。ひとつは雪舟の友人で先輩でもある人物が書いたものですが、「雲谷名は等揚、海東備府の人也」とあります。海東というのは中国から見て東の国、つまり日本の備の国の人、すなわち吉備の国の出身者であるということです。それだけですと、備前なのか備中なのか備後なのかがわかりません。それを教えてくれるのが、もうひとつの資料で、やはり雪舟の親友である了庵桂悟という禅僧が山口に在った雪舟のアトリエのことを記した『天開図画楼記』という文章です。「四明天童首座雲谷老人 諱等楊、号雪舟、本貫−これは生まれたところのことですね−備の中州の人 姓藤氏」です。これで雪舟の生まれた国が備中であることが確定しました。
ここで「四明天童首座」というところに注目してください。これは中国の天童山という禅の聖地、天童山景徳禅寺というところで、雪舟さんは首座を務めたということであります。首座と書いて「しゅそ」と読みます。これは雪舟さんにとっては誇るべき役職でした。雪舟さんは日本では「しか」、「知る客」と書きますが、という役職に就いていました。そこで、彼は仲間たちから「楊知客(ようしか)」と呼ばれています。ところで皆さん、宝福寺さんの門を通って、この建物に入ってすぐ左のところに「知客寮」、「知る客の寮」と札がかかっているのにお気づきでしたか?あそこに詰める役職です。禅寺の6つの役職のうち、上から4番目ということですから、上の方ではないということです。修行を重ねたお坊さんが務めますが、来客の案内役をしたり、他の新入りのお坊さんたちの指導をする役でございます。つまるところ、雪舟さんは日本ではあまり出世しなかったということです。しかし中国では首座という役、つまり修行僧のトップ、第一位と認められたというのです。彼は日本では役職に恵まれなかったけれども、中国では修行僧として最も上位にまで到達したということを生涯誇りにしており、常にそれを意識していたということなのでしょう。
ここでもう一度確認しておきたいことは、雪舟さんは備中の生まれでした。それは雪舟さんが生きている頃の資料でわかりました。ただし、それが総社だとか倉敷だとか井原だとか、それ以上詳しいことは、現存する資料ではわからないということです。雪舟さんが自分は備中のどこの村のどういう家に生まれたといったことを誰かに伝えていたならば、後の時代まで、いつまでもわからないという状況は生じなかったはずです。彼はそういった出自については黙して語らずということだったのでしょう。
そして、いよいよ赤浜生まれという説が登場して全国に広まっていくのは、亡くなってから150年以上たってからのことです。大体1600年代の終り頃になってからのことでしょうか。それを示すのが資料の『本朝画史』の「雪舟の項」です。この『本朝画史』というのは、京都の狩野派のトップであった狩野永納という当時とても格の高い画家が出した本で、それは日本最初の画人伝といっても良いものでしたが、その中で雪舟さんに関するいろいろなことを特別長いページを割いて触れているわけです。その最初のところをちょっと読みます。「僧雪舟、諱は等楊。また備渓斎と称す。あるいは米元山主と称す。氏は小田。備の中州赤浜の人なり。今に至るも赤浜の田間、雪舟の生まれるところあり。天性−生まれながらに−画を工(巧)みにする。如拙および周文を師とし、その法を得、さらに新意を出だす。或はいわく、雪舟十二、三歳に及び、その父これを携え井山宝福寺に投ず。而して一僧の弟子となす。雪舟は幼きより画を好み、経巻を事とせず。」といった具合です。雪舟さんは子供の頃から絵が大好きがで、肝心のお経を勉強しませんでした。そこで「一朝」、ある朝、師であるお坊さんが怒って小坊主の雪舟さんをお堂の柱に縛りつけます。時間がたって日がだんだん暮れてきました。師のお坊さんは雪舟さんを憐れんでお堂に行って縛った縄を解こうとしました。すると雪舟さんの膝の下のところをネズミが走りました。お坊さんはびっくりして騒ぎ、ネズミが雪舟さんを傷つけてないかと心配して追い払おうとしました。ところが、ネズミは動きません。これはあやしいと思ってよくみたら、雪舟さんは一日中縛られていたので、足の親指を使ってお堂の床にこぼれ落ちた涙でネズミの絵を描いていたことに気付きました。そのネズミの勢いはあたかも生きて走り回っているように見えました。ここに至って、師のお坊さんはその巧みさに感服して、「それよりあとは絵を戒めず」となりました。さらに「壮年に及んで相国禅寺の僧録司である洪徳禅師」、すなわち京都に赴いて春林周藤という相国寺の偉いお坊さんに師事するようになりました。およそこのようなことが書いてあるわけです。結局のところ、この『本朝画史』に書かれていることが、皆さんの雪舟さんと総社とを結びつけるイメージを作り上げたといっても過言ではありません。この本が刊行されたのが1697年です。雪舟さんが亡くなってすでに200年近い年月がたっていました。
ちょうどこれとほぼ同じ頃に岡山で出版された『増補吉備物語』という本、これにもやはり雪舟さんは赤浜の人であるということになっております。ただその本には、あくまで赤浜生まれというのがベースなのですが、赤浜の東隣りの画塚というところ、これは岡山市の高塚というところですが、そこにも雪舟さんが生まれたという屋敷があると紹介しています。そしてもうひとつ、『遠碧軒記』という本、これは広島の浅野家に仕えた儒学者で、お医者さんでもある黒川道祐という人が執筆したものですが、彼はだいたい京都に住んでおり、京都と広島の間をしばしば行き来しておりました。彼がこの総社あたりで、いろいろなことを調べたようで、「雪舟は備中赤浜というところの人」とし、そこには「今雪舟屋敷とて、田間に竹薮まろくはへまわりてあり」と書いています。実際に現地調査をした黒川道祐という人がそういう記録を残しているのです。ただ、この黒川道祐と先ほどご紹介した『本朝画史』という本を書いた京都の狩野派の人たちとは非常に近い関係にありました。黒川道祐が『本朝画史』のいちばん最後の文章、跋といいますが、それを書いているくらいですから。故に黒川道祐が調べたことが、つまり赤浜で生まれたということが『本朝画史』に載って全国に広まっていったということなのだろうと私は考えております。つまるところ、亡くなってから170年とか180年とか経って地域で伝わっていたことが全国に広まったということなのでしょう。そうなると、総社の赤浜生まれというのは本当のことなのだろうかと疑問符が付くかもしれません。
それでは4番目の資料を見てください。これは先ほどお話させていただきましたように井原市芳井町の重玄寺を開いた禅僧千畝周竹さんがお話されたり、お書きになったことを後にまとめた本ですが、千畝周竹さんという方、この方は三原の仏通寺を開いた愚中周及さんのお弟子さんです。資料4の3行目でしょうか、「備の中州赤浜の保に居住したてまつる三宝の弟子、藤氏重定、ここに先考の某人の三十三白」、すなわち藤氏重定のお父さんの三十三回忌の法事を徳本庵というところで行いましたというのです。雪舟さんの姓が「藤氏」というのは、「備中の人」であると教えてくれた了庵桂悟が書いていることです。そしてこの本から赤浜に「藤氏」、藤原の「藤」ですが、藤氏という名字の人がいたことがわかります。その法事の時期は雪舟さんがちょうど30歳の時のことですが、名字をもった人がそんなにいない時代です。同姓の人が赤浜に住んでいたということが証明されたわけですから、赤浜生まれと考えてまず間違いないということになるでしょう。確認すると、赤浜に藤氏という姓をもった人が住んでおり、その家が「徳本庵」という禅の庵を維持していたわけです。ここに記されていた「赤浜の保」、この「保」というのは中世の歴史用語で、何とかの荘園とか何とかの郷とか、そういうのと一緒ですから、赤浜にいた在地の領主というぐらいにお考えください。家の後継ぎでしたら出家してお坊さんにはならなかったでしょうから、藤氏の次男とか三男とかそうした形で雪舟さんはお生まれになり、やがて禅僧の道を歩んで行ったのでしょう。徳本庵という仏通寺派の小さなお寺だったでしょうが、それを建てて維持することができるくらいの在地の領主、地主、豪族、そういうところのお子さんとして生まれたとご理解いただけたらと思います。
ここで紹介した『也足外集』という資料は、ほんの十数年前に井原市の芳井町の「雪舟さんを語る会」という郷土史の会の方々が見つけ出した資料です。これまで赤浜生まれと伝えられていましたが、当時雪舟さんと同姓の方が住んでいたことが確実となったので、赤浜誕生地説が揺るぎのないものとなったとみなしてよろしいのではないでしょうか。そういう意味で、井原の方々の発見は高く評価されてしかるべきでしょう。
では続きを見ていきます。江戸時代に『「本朝画史』が出版された後、地元の文献、岡山に残っている文献でいいますと、『備中集成志』という本が1753年にまとめられているのですが、そこには「道祐が曰く」という言葉が出ていますので、『本朝画史』を参考にして記述したものと認められます。それから先ほど少しお話しいたしました『増補吉備物語』という本には、赤浜村説、その東隣りの高塚村にも誕生地説があるということに加えて、北隣りの田中村というところにも雪舟さんのゆかりの家があったということが記載されています。しかしながら幕末の『備中誌』という本には、田中村というのはもともと赤浜村の一部であったというようなことの記述もあります。
この田中村誕生説というものには、なかなか興味深いところがありますので少しお話ししてみましょう。お配りした資料に、赤浜の『画聖雪舟誕生碑』というのを入れておりますが、実はその碑の北側約300mのところにもうひとつ石碑が立っています。それが高松田中の『雪舟遺蹟碑』です。資料のナンバーでいうと6番、7番、ページは4ページです。
まず、赤浜の碑ですが、表の題字は「蘇峰正敬」、ちょうど今、NHKの「八重の桜」という大河ドラマに登場している徳富蘇峰というジャーナリスト、その彼が筆を揮いました。背面の文章は山田準という学者さんが作り、中島嘉一さんという人が書写したものを刻んでおります。その文面には、吉備国には古よりたくさんの人材が出たけれども、雪舟さんはまさにその一人、俗姓は小田、雪舟はその号、備中赤浜に生まれ、幼い時から絵を好んで宝福寺に入った後、明国へ渡って画を学んだとか、そういったことが書き込まれています。なお、ここでは雪舟さんは永正3年(1506)8月8日に益田市の大喜庵で寂した、87歳で亡くなったという説が採られています。それから岡山では雪舟さんは吉備真備、和気清麻呂、法然上人、栄西禅師、そういった方々と並んで五大偉人のひとりだとも讃えられています。これが昭和12年8月に書かれたのですが、実際に碑が出来上がったのは2年後の昭和14年のことでした。
一方、資料7番の『雪舟遺蹟』が、現在の岡山市高松田中に建てられています。総社インターのすぐそばにありますが、小ぶりであまり目立ちません。ところが、この碑の文章は徳富猪一郎、すなわち徳富蘇峰が作ったものです。赤浜の碑は題字を書いただけなのですが、この田中の碑の文章は全部蘇峰が作ったものです。しかも、書かれている内容が赤浜のものとは異なっています。裏側には「画聖雪舟禅師碑の由来」とあり、「この碑より南へ十間四方の地は、従来画聖雪舟の古屋敷跡なりといい伝え」られていて、「この地は田熊家に伝え来たりしものなりか」とあります。この田熊さんという家は「もと石見の住人にして権太左右衛門信清の時に備中に移り、大森氏に仕える」ということで、「大森氏がなくなった後、この屋敷に住み、その子源太清定が井山宝福寺に入って剃髪し、後に中国に渡って雪舟と号す」とあるわけです。ここでは田中誕生説に加えて雪舟田熊氏説も出てきました。しかもその田熊さんは益田の出身だから、雪舟さんは祖先の地石見益田の大喜庵でお亡くなりになったのだと記します。昭和15年に徳富蘇峰さんが、雪舟は田熊氏で田中に誕生して益田で亡くなったとする文章を作って刻んだ石碑が田中村に建ったということなのですが、この田中村説は先ほど申しました『備中集成誌』にも載っておりました。ただ、田熊氏説は1700年代の半ばから幕末の間に唱え始められたようで、幕末に出た『備中誌』という本でもさほど重要視している形跡はなく、こういう話もあるといった程度の記述がされています。何より、雪舟さんが生きている時の、姓というのが「藤氏」、藤原氏の一族だということが明らかなので、田中村田熊氏説を採用するのは無理でしょう。ただ、お話としたらとてもおもしろく、それなりにつじつまがあう話だといえるかもしれません。
それでは続いて江戸時代の半ば以降、ここ総社周辺では雪舟さんどのように評価していたのかをみていきましょう。その手がかりとなるのが、資料にありますが、宝福寺の『雪舟禅師之碑』です。会場のすぐそばに見えますが、とても大きく立派なものです。建てられたのは大正の末から昭和の初めのことですが、書かれている文章自体はもっと早く、江戸時代後期、1817年に作られたものです。文章を作ったのは代々吉備津神社の宮司の家に生まれ、本居宣長の高弟として活躍した国学者で歌人でもある藤井高尚という方です。文字の方は当時きっての能筆家で、有名な儒学者の頼山陽さんが書いております。その文章、これは普通ではとても読めるものではありませんのでルビをつけたのを1枚用意しておきました。今日の私の話は忘れてくださっても構わないのですが、こういう碑がゆかりの宝福寺に建っていて、碑文はこんなふうに読むのだということを思い出していただけたら、私としては本日のお役目を果たせたような気がしますので、参考までに1行2行を読んでみます。「井山の雪舟禅師の碑はもよ、亀山道本−彼は総社にいた豪商で、ここから北に20km少々でしょうか、今の高梁市にあった備中松山藩というところの御用商人でした。この亀山家というのは戎屋という屋号で、総社きっての商家であります。道本という人自身、藤井高尚の国学や歌の弟子でもありましたし、亀山一族はみんな絵を描いたり学問をやったりとなかなか学術・芸術に熱心な人たちでした。−亀山道本いこころを起こして−心を起こして−、吉備の国中の人もろと−吉備の国の人たちと一緒に−、事を謀りて、造り立てたるにもありける。」ここまでを簡単にいいますと、この碑は亀山道本が志を立てて郷土の先輩、雪舟さんの碑を造ろうと考え、先生の藤井高尚に文章をお願いしたということですね。そして、5行目の真ん中から下の方に「禅師はこの吉備の道の中の赤浜村というところの民の布施屋の小屋のうちにあれいで−生まれ出で−て、天雲の向かうす限りの画かきとぞ云いし人」。これは神主さんが祝詞をあげる時の言い回しですよね。したがって、ルビをふってもどこで始まり、どこで終わるのかさえ、よくわからないといった文章であります。次、「今もそこに親族の末の家ありとぞ。小田氏にて、名をば等楊といいけり、雪舟と聞こえしは漢さま−中国−の号というもの。また備渓斎とも米元山主とも漁樵斎とも雲谷軒ともいえるは、・・・」と。この高尚さんが作った文章もやはり『本朝画史』をベースに作っているのですね。そしてその後、「幼時に宝福寺に来入り」て弟子になったということが記されています。ただ、最後から2行目には、「後にまた石見国益田の大喜庵に移り住みて、文亀の二年という年にみまかりぬ。年八十三、墓はその庵の垣内にありとなも。」つまり、益田の大喜庵に83歳で亡くなった雪舟さんのお墓がありますよということです。この文章は文化14年、1817年にできたのですが、あいにく亀山道本さんが早く亡くなってしまったため、この碑を建てる費用が集まらず、すぐには造られなかったという事情があります。最終的にこの碑が出来上がったのは、大正末年から昭和6年の間のことでした。したがって、藤井高尚が文章が作り、頼山陽が筆を執ってから100年以上も経ってしまったということです。あの大きな石碑、高さが454pありますが、その横には小さい碑があって、雪舟碑を建てるのに努力した人たちの名前が刻まれています。そこには発起人が53名、中には犬養毅さんの名前がみえますし、そのそばには賛助会員という形で大原孫三郎さんの名もあります。そういった名士の方々が地域をあげて資金集めをしたことで、こんな大きく立派なものが建てられたということですね。
さて、その石碑は三段に分かれており、一番上が雪舟さんの自画像、次が雪舟さんが中国で描いたとされる育王山金山寺という有名なお寺の景観、そしてその下に今の藤井高尚の文章があるという形になっております。文章は神主さんが使う宣命体という擬古文で、万葉仮名で書かれていますので、まず読めないし意味がわかりません。それでも、このルビのついたものを一緒にご覧になったら、なるほどとなるのではないでしょうか。いずれにしましても内容は先ほど申しました通り、ほぼ『本朝画史』を利用しております。亡くなった年齢、場所については、83歳、益田でとしています。ただし、この碑が実際に建てられた時点、昭和6年くらいまでの間に、ここ宝福寺では『宝福寺小志』という本がまとめられていますが、そこでは雪舟さんは87歳で亡くなったという説を採用しております。そしてこの『宝福寺小志』という本には雪舟さんが宝福寺の住職も務めたというような記事も出ています。宝福寺は戦国時代、1500年代の後半は備中兵乱という絶え間ない戦争に巻き込まれ、ほとんど全山が燃えております。今まで遺っているのは、この建物の上にある三重搭、それは国の重要文化財に指定されていますが、それくらいのものです。あとは境内全部が燃えてしまって記録類などは失ってしまいました。そのため雪舟さんの場合も、宝福寺の62、63世のあたりにお名前が出ていますが、前後が点々になっていて、事実かどうかわからないという現状でございます。きっとご住職になられてはいなかったのでしょうが、後世、画聖と称えられるほど有名になったので、ゆかりの宝福寺ではそのように取り計らったのでしょう。
こういったことから考えていきますと、総社周辺で雪舟さんは赤浜生まれであるとみんなが認識するようになったのは1600年代の後半になってからのこと。そしてそれが次第に広まって1700年代の半ばを過ぎると、雪舟さんの末裔であると称する人たちまで出現するようになったようです。そこでこのゆかりの地宝福寺に記念碑を建てようという運動が起こり、最終的にそれが実現したのは昭和になってからということだったのでしょう。
それから、もうひとつ問題があります。雪舟さんは本当に宝福寺に入って小坊主時代を過ごしたのかどうかということです。そのようなことは今更何をいうか、当たり前だと理解している宝福寺さんで、まぜかえすようなお話しするのも変なのですが・・・。宝福寺さんは臨済宗東福寺派の拠点となっている大きな禅寺です。近隣の子どもたちが禅寺に入って修行するとなったらこの宝福寺でと考えるのは尤もです。宝福寺と赤浜は距離にして6kmとか7kmとかそんなものですから、ここへ来て修行を始めるのが当然のように思われるのですが、雪舟さんが生きていた頃の資料では京都の相国寺というところに入ったということしかわかりません。しかし雪舟さんの交友関係をたどってみますと、この相国寺との関係性が意外にも弱いことがわかってきます。もちろん、雪舟さんが画の指導を受けた周文さん、彼はお坊さんですが足利将軍の御用絵師を務めた画僧です。そして禅の修行ということに関しては、相国寺のご住職春林周藤さんに師事していたことも間違いありません。それらは当時の資料で明らかなことです。したがって、雪舟さんが相国寺にいたことは確実ですが、そこから離れた後、おそらく30歳の半ば過ぎからは相国寺系の人たちとはあまりお付き合いしなかったということも確かです。雪舟さんは主に東福寺系の禅僧たちと親しくお付き合いしております。つまり、雪舟さんは東福寺と何らかの結びつきがあったと推測できるということです。相国寺というお寺は当時、臨済宗の禅寺の人事権を握っていました。このサミット会場には行政の方が大勢お出でになっていらっしゃいますが、当時の禅寺というところはいわば役所のようなところです。役所では人事権と財政の権限を持っている人や部局が強いというのは皆さんよくご存知の通りです。そういう意味で、相国寺というのは禅寺の中ではずばぬけて強い権力をもった役所のようなところでした。そういう環境の中で雪舟さんが生活していたわけです。繰り返しになりますが、彼はおそらく30代半ば頃には京都を離れています。相国寺から出て行ったのでしょう。その後は相国寺とのつながりは希薄で、東福寺系の方々との交流ばかりが目立っております。先ほども申しました通り、東福寺というお寺さんはここ宝福寺さんとはとても縁の深いお寺です。実際にこちらの宝福寺のご住職を務めた方が東福寺のご住職になることは、雪舟さんより前の時代から例があります。東福寺の中に塔頭を設けられた方もおり、今でもこちらのご住職小鍛冶元慎先生の先輩である福島正道先生がしばらく前までは東福寺のトップ、管長職に就いておられました。その福島管長の師匠である岡田元亨先生もやはり東福寺の管長をなさっていました。このように宝福寺さんと東福寺さんとは昔からずっと因縁が深いわけです。そうなると、雪舟さんは宝福寺から最初は東福寺に行ったのではないだろうかという話になってくるわけです。だからこそ、東福寺系の方々との交流が成り立ったのでないかと推量できるわけです。その後、画の勉強をするため相国寺に入ったとするのが妥当ではないかと思います。しかし、そこのところは資料がみつからないため、まだきちんと認められておりませんが、東福寺に行った可能性は非常に大きいと考えております。
もう一度、雪舟さんの出自、生まれ育ちを見ていきますと、臨済宗仏通寺派の徳本庵という小さな禅庵を一族で維持していました。徳本庵の姿を間近に見ながら育っていったのでしょう。そこでは先ほど申しましたように、一族のトップである藤氏重定という人のお父さんの33回忌の法事は井原市重玄寺、三原市仏通寺の住職を務めた千畝周竹さんが取り仕切りました。その千畝周竹さんの語録『也足外集』には東福寺の栗棘派のお坊さんの名前がしばしば出てきます。三原仏通寺を開いた愚中周及さんの門下の方々、千畝周竹さんも含めて、彼らは臨済宗の中では、修行第一を徹底した方々でした。都会、俗世間の中では十分修行ができないと考えられたようです。たとえば建仁寺さんは岡山出身の栄西禅師が建てたお寺ですが、祇園の隣に位置しています。祇園の賑わいが耳をふさいでいても聞こえてくるような近さです。お寺が造られた後ににぎわいの源が発生したとしても、世俗の真只中に立地していることは否めません。そういう俗人の世界ときわめて近いところで生活されている禅僧がいる一方で、この栗棘派というのは、三原の仏通寺さんが町から離れた山紫水明の地に在って、そこで熱心に修行に励まれているのと同じく、厳しい修行で知られた一派でした。そういう共通点があって、仏通寺派は同じ臨済宗でも大徳寺とか南禅寺だとか相国寺などとは距離を置いていましたが、東福寺栗棘派とはとても良い関係を維持していました。そういうところからも、仏通寺派の徳本庵・仏通寺とこの東福寺派の宝福寺とは縁があります。そしてさらに栗棘派には備中出身の清巌正徹という有名な歌を詠む僧が属しておりました。正徹さんは国文学の方では非常に有名な歌人です。彼は小田姓で、雪舟さんより一世代前の人ですが、先ほどの千畝さんも、この正徹さんも雪舟さんの相国寺での先生春林周藤さんとは近いというか、知り合いでした。こうした複雑に織り交わされた関係性は非常におもしろいですね。徳本庵、重玄寺、仏通寺、宝福寺、東福寺、そういった大きなサークルがあり、そういうつながりの中で雪舟さんは生活し修行を重ねながら育っていったのでしょう。
最後に禅の修行という観点ではなく、水墨画を学ぶという視点から考えてみましょう。京都の東福寺には水墨画を描く画師集団が存在しました。明兆さんという画家の流れを汲んだ一派ですが、彼らは多く水墨で仏画を描いています。他方、相国寺の方は足利将軍の御用絵師を務めた周文さんという人がトップでした。彼は当時最大最高の水墨画家と認められており、主に山水画、詩画軸の画の方を担当し、人物画なども手掛けておりました。仏教、禅宗という枠にこだわらず、かなり世俗的な、文人的な水墨画なども描いています。雪舟さんの方向性は直接学んだ周文さんと近いところがあります。もちろんもっと進化しておりますが・・・・。石見益田の領主であった益田兼堯さんのところで制作したとされる《花鳥図屏風》や丹後へ足を運んで風景を写した《天橋立図》などの存在を考えますと、題材が幅広く、描き方も多岐にわたっており、オールラウンドの画家だったといえるでしょう。
雪舟さんについては、宝福寺から東福寺、その後はわが国で最高水準の水墨画を学ぶ機会を求めて相国寺に入り、そこで彼の画業を発展させる基礎を作ったと考えたいところです。しかし、備中の田舎出身者である彼の画風はどちらかというと武骨な、骨太なものでしたから、洒落たものを重視する当時の京都の好みとはギャップがあり、彼の画力は認められていたのでしょうが、十分に受け入れてもらえなかったのではないかと想像いたします。それ故、都を離れ水墨画のふるさと、本拠地である中国へ渡る機会を得るために、遣明船出発の基地である博多を治めていた山口の守護大名大内氏の下に赴いたのではないでしょうか。
それではだいたい時間が来たようですので、このへんで終わらせていただきます。今日はどうもありがとうございました。
司会>
守安先生、どうもありがとうございました。赤浜が生まれたところに間違いないという確認をいただきました。確かに、漢文などをこんなふうに目にして比較的スムーズに読むことができたのは守安先生のおかげでございます。どうもありがとうございました。拍手を贈って差し上げてください。どうもありがとうございました。
実は水墨画の中で、どうなんでしょう、正しいかどうか教えてください。自画自賛という四文字熟語がございますが、これは水墨画の中から生まれた言葉だと聞いておりますが、間違いございませんでしょうか。私の場合はクエスチョンマークが多い知識が多いものですから。何ですか、掛け軸の絵が画で、言葉が賛というふうに聞いております。この掛け軸の中の字が自賛、これはよく描けたなあという、素人衆が自画自賛するというのがこの掛け軸から生まれた言葉だと聞いております。
それと、守安先生の話の中で、私は元放送局におりましたので、あ、やっぱりそうなのかと思った一言がございます。それは、お気づきになりましたでしょうか、岡山県同じく出身の茶祖と申しますと、我々はえいさい禅師と呼んでおりましたが、守安先生はようさいというふうに言われました。このところ、ようさい禅師というほうがどうも正しくなってきているようです。こんなところにも耳を傾けてみました。
ではこのあとは雪舟サミットを行います。そして会議を行いますので、これより10分間の休憩でよろしいですか? 今が25分ですので35分から市長さんをはじめとして、この会議のほうに入らせていただきます。10分間休憩をさせていただきます。どうもありがとうございます。
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