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雪舟について

雪舟【1420(応永二七年)〜1506(永正三年)】

雪舟。
画を志す者でなくとも一度は耳にしたことのある名である。
人は彼を「画聖」と呼ぶが、人物像について書かれている文献は数少ない。
その姿を知るてかがりになるのは、彼の作品と知人達の詠んだわずかな詩や文である。

備中から京へ
 周文より画を学ぶ

 雪舟は、応永二七年、備中(岡山県総社市赤浜)に生まれ、十三歳の時に備中井山の宝福寺(岡山県総社市)にはいり僧となったと言われる。しかし、画に心奪われ、僧侶としての修行を行わないので、和尚に柱に縛り付けられ、悲しみのあまりこぼれた涙で書いた鼠が走っているように見えたというのは、あまりに有名な話である。
 その後雪舟は十七歳の時に京都の相国寺にはいり、“等楊”の名をもらう。この等楊という名は「諱(いみな)」である。諱とは、生涯変わる事ない名である。つまり“雪舟”という名やまた彼が一時期名乗っていた“雲谷”という名は「号」、いわゆる画人などが本名のほかに用いる雅号なのである。さて、雪舟は、その相国寺で当時、墨絵においては一流の大家で将軍足利義教の御用絵師を勤めていた周文の弟子となり、画の修行を積むこととなったと言われる。
 将軍家とつながりの深かった相国寺において、雪舟は師の周文の影響を受けただけでなく、墨絵の本場、中国の画家の画を見る機会にも恵まれたと言われる。しかし、時代は室町時代末期。世は乱れ、国のあちこちで飢饉がつづき、武士が各地で旗揚げをしていた時代である。そんな中、ある日、将軍足利義教が昼日中宴会の席で切り殺されるという事件が起こる。後を継いだわずか七歳の義勝も病弱のためたったの三年で将軍の座を去り、その後を継いだのが足利義政である。
 義政は、幕府の財政が貧窮しているというのに、銀閣寺を建立したり、芸術品を集めて贅沢にふけっており、世間は不満であふれていた。しかし、茶道・華道が花開き、世阿弥などの芸術家がうまれたのはこの時代である。つまり、義政はいわば今もなお残る茶道や華道といった日本文化を育てた恩人といえる。しかし、雪舟はそのような騒がしい京の都では、画の修行もままならなかったのであろう。京を去り、周防の国(現在の山口県)を治めていた守護大名・大内氏を訪ねる決心を固めたと言われる。

京から周防、そして明へ
 雪舟の残したもの

 周防の国(山口)は京の都によく似た盆地で、整然とした町が築かれていた。また当時の周防は朝鮮や中国との交易も盛んで国がとても潤っており、知識人・文化人が集まってくる文化都市でもあった。外国との交易によりもたらされた豊かな冨を背景に、文化芸術等に造詣の深かった大内家に快く受け入れられたと言われる雪舟は、周防の国で楽しい日々を過ごしたことであろうことは想像にかたくない。
 そして、応仁元年(1467年)、雪舟が周防から明に渡ったことは、帰国後の彼の画風に大きく影響を及ぼすことになった。明に渡った雪舟の才能あふれる画は、誇り高い「画院」(中国の美術研究所のような機関)でも絶賛されたという。明を訪れた際、雪舟がその宮廷から直接求められて描いたという「礼部院壁画」が焼失してしまい、今は観ることができないのは大変残念なことである。雪舟にとってその明への旅がどれほど印象的なものであったかは、十三年後に美濃を訪れた際に万里集九のために書いたと言われる『金山寺図』からも覗える。
 明から帰国した雪舟は一旦は周防(山口)に戻るのだが、その後豊後(大分県)に渡り画房を開いた。天開図画楼と名付けられた画房には九州各地から弟子が集まり、雪舟は身分に関係なく求めるものにはみな画を描いている。この時代の作品で見逃せないのが『鎮田瀑図』である。この画は惜しくも関東大震災で焼失してしまったが、その後の雲谷派の成立など、雪舟が後世の画家たちに与えた影響ははかりしれないほど大きいものがある。
 雪舟の通った後には、風景が残り、悠久の時を刻む。長い漂白の中でその数ははかりしれない。雪舟が残したのは、画ばかりではなく、雪舟作と伝えられる庭園が、現在、国指定のもので、山口県山口市の常栄寺、島根県益田市の医光寺、万福寺、山口県阿東町の常徳寺、添田町の亀石坊にある。
 実は、雪舟がいつこの世を去ったのか定かではない。周防山口の雲谷庵や石見益田の大喜庵、備中の重玄寺など諸説がある。そのひとつ、益田市の雪舟の墓があると伝えられている地には「雪舟の郷記念館」が建てられ、益田兼堯(ますだかねたか)像をはじめ、花鳥図屏風など雪舟の作品が収蔵品や晩年茶の湯のために愛用したという泉が残っている。

没後五百年を間近に迎えて

 雪舟の画は今もなお、多くの人々に愛されつづけている。純真に画道一筋を極めた生き様が心を打つのか。
 雪舟の代表作として忘れてならないのが「慧可断臂図〔えかだんぴず〕」(斎年寺蔵)ではないだろうか。中国の故事をあらわしたその画の太い線で描かれた菩提達磨は、他の画と異なった印象を与えるが、その表情からは雪舟の禅の心がにじみ出ているようにも思える。「謹んで書」という文字も添えられている。当時まさに世は戦国に入ろうとしていた。乱れた世に、雪舟はこの画でいったい何を伝えたかったのであろうか。

 生涯禅僧の身を貫いた雪舟には、妻も子もない。流浪の生涯の中で最後を看取った者さえ不明である。孤独ではなかったのだろうか。余人には想像も及ばない壮絶な人生ではなかったろうか。雪舟の画にある、厳しい山々は、現代人の心にも深く訴えるものがある。


《参考資料》
『世界伝記全集 雪舟』 富永次郎(ポプラ社)   
『雪舟』 吉村貞司(講談社)
『山口県百科事典』(大和書房)     
『山口市史』(山口市)
・パンフレット類
 万福寺(益田市)
 医光寺( 〃 )
 雪舟の郷記念館( 〃 )

 
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